負としての音楽

音楽や芸術の話

日々を楽しく生きる、という営みの中には、深く物事に思いをめぐらせる、ということも必要なのかな、と感じることがあります。

うわべだけで楽しい、というのはどうしても底が浅くなってしまうので、長く日々の生活を楽しむには、沈思黙考、学習というのは常に忘れないようにしたいです。

どた山は音楽が好きで、下手の横好きで楽器を弾いたりしているのですが、そこで昔から抱いている違和感があるので、そのことについて述べてみたいと思います。

もう四半世紀前の話ですが、ホームページを持っていて、そこに書いた記事を見つけたので、まずはそのまま掲載してみます。

内容は浅くて、ツッコミどころも多いのですが、長い期間の違和感であることをまず知っていただければと思います。

四半世紀前の文章

〜以下は昔のホームページに載せた文章です〜

私はクラシック音楽が好きなのだが、若い頃にそうした自分に自己嫌悪したことがある。音楽が楽しめる感性があるということは素晴らしいことで、人生を乗り切っていくのに大きな財産となると確信しているのだが、なぜそんなことを思ったか。

それは19世紀末に頂点に達したように思われるヨーロッパを中心とした列強による植民地支配と関係がある。

その頃の私は、結局のところ西洋音楽がこれだけ爛熟できたのは、いや音楽だけに限らず自分が好きな19世紀末的退廃といったものが存在し得たのは植民地が搾取されそれにより経済的にヨーロッパが潤ったからではないのか。自分はそうした搾取の上に成り立ったものに傾倒しているに過ぎないのではないか。

本当にそう思って悩んだことがあった。

しかしそれは視野の狭い考えなのではないかと後には思えるようになった。

確かに大航海時代から本格化したヨーロッパによる植民地支配で19世紀には地図に残りがないほどに分割された支配構造が確立され、その結果経済的勝者であるヨーロッパに芸術の発展する余地ができたことは否めない。しかもそうした構造が成熟しきって後は戦乱の20世紀に入ろうとするとき、きら星のごとく天才たちが出現した。これは出現し得た、といった方がいいかもしれない。

そしてやはり今でもこれらはアフリカやアジア、南米からの搾取の結果だと思っている。しかしそうした犠牲があって初めて我々は爛熟した芸術というものを享受できたとも言えるのだ。犠牲になった地域があったからこそ発達したのだ。

むしろ、植民地支配という犠牲によって経済格差だけしか生まなかった、という歴史より、こうした世界的偏りによって人類の遺産を手にできたということは奇跡的に幸運なことなのかもしれない。

新しいスコアを手にしたとき、楽譜を手にしたとき、私は陶然として幸福な気持になる。その後にやって来るうまく弾けない悩みというのはその時にはなく、奴隷として失意のうちに死んでいった人、阿片に溺れさせられ人生を不幸にしてしまった人、そうして偶然にも現れることのできた天才に思いを馳せながらページを繰る。それはヨーロッパの音楽かもしれないが、天才たちを生むためになされた全人類の共同作業のように思えてしまうのだ。

それにしてもなぜ文化というのは偏りのあるところに生まれるのだろう。時としてスコアを見ながら15年前に共産中国を一ヵ月以上ふらついたときのことを思い出す。フランス料理と並ぶ世界二大食文化と言われている中華料理の大陸での実に雑な味、それに比べて香港での陶酔に似た料理。一冊のスコアを見ても一皿の中華料理を食べても、世の中の不条理を感じてしまう。この不条理が現実なのだと。

〜ここまでホームページに載せていた文章です〜

今読んで思うこと

何とも恥ずかしい内容で、かなりの覚悟を持って公開したのですが、植民地支配のことを語っていながらも、なおヨーロッパ中心史観であることは否めないですね。

また、ヨーロッパの植民地支配の歴史が長かったこと、奴隷貿易(いわゆる三角貿易)、現在まで続く混乱の元凶であること、ヨーロッパが裁かれないご都合主義、そうしたことに言及がないのも物足りません。

人間も商品として扱われた

世界史の勉強をしていた人には受験時代を思い出す、と言われてしまうかもしれませんが、大航海時代の「新大陸発見」以降、新大陸での労働力が問題になっていきます。

「新大陸」とか「発見」とかいうのも失礼な話で、ずっと南北アメリカ大陸には人は住んでいて、勝手にヨーロッパ人が新しいとか見つけたとか言っているだけです。

南北アメリカ大陸に住んでいた人々は、虐殺やヨーロッパから持ち込まれた感染症(ずっとアメリカ大陸に住んでいた人たちが免疫を持っていなかった病原体によるもの)で人口が激減してしまったたので、アフリカ大陸から奴隷を「輸出」する、ということになった、と習ったことと思います。

その際に行われていたのが三角貿易で、ヨーロッパからは武器をアフリカに輸出し、一部のアフリカ人にその武器を渡して、他のアフリカ人を奴隷として集めさせました。

集められた奴隷はアメリカ大陸に「輸出」され、そこで労働させられ、アメリカ大陸からはプランテーションで作られた綿花や砂糖がヨーロッパに運ばれる、という三角貿易が成立しました。

天然資源でさらに悪化

年代が進んでいくと、生産、輸送といった点だけではなく、天然資源確保などの理由で植民地支配がひどくなっていきます。

ゴムとか金属とか宝石とか、アフリカなどには豊富にありますよね。

ヨーロッパは搾取を続け、ますます経済的に富んでいきます。

そうした経済的に余裕が生まれないと、かなり込み入った内容の芸術は生まれる余裕はなかったのかもしれない、というのが前述の文章です。

「四半世紀前の文章」は補足説明しないと、ちょっとわかりづらいですね。

あまりにもヨーロッパ中心主義の世の中

三角貿易でもアフリカの人にアフリカの人を集めさせる、といったことについて触れましたが、分断統治(あるいは「分割統治」)というのはヨーロッパお得意の手法です。

この手法自体は、古代からあるもののようですが、大航海時代以降多用されているように感じます。現在でも続いている紛争の多くがこの影響を受けていると言ってもいいかもしれません。

支配地域を分割し、それぞれを対立させ、支配者に対して不満を抱かせないようにするこの手法ですが、近年で特に有名なのはルワンダの大虐殺でしょうか。

ベルギーに植民地支配をされていたルワンダですが、宗主国のベルギーもこの手法を取っていました。

少数派のツチ族を優遇して多数派のフツ族を支配させるという仕組みをベルギーは作りました。

もともとは対立もなく、普通に暮らしていたツチ族とフツ族でしたが、あえて対立するような構造にしたのです。

その後の大虐殺を生んだ内戦は、記載すると長くなりますし、複雑な事情もありますが、ツチ族を虐殺したフツ族が悪い、といった一面的な報道がされたりしたことを考えると、ベルギーによる支配が「うまくいった」ということになります。

ヨーロッパは裁かれない

ちょっと世界史を漁ってみると、色々と鬱屈とする内容に直面することになります。

歴史というのはどの視点から見るかで内容が変わってきてしまう、というのはご存知だと思いますが、日本で教えられている世界史は、ほぼヨーロッパからの視点であると思っていいでしょう。

しかも、奴隷貿易や植民地支配を行ってきた国々は裁かれることはありません。

裁く法整備が当時はされていなかった、というのが理由です。

「人道に対する罪」というのが国際的に認められたのが1945年。それ以前のことだから裁けない、という理屈だそうです。

これも実は怪しげな理屈で、ナチスや日本軍は1945年以前ことをこの罪で裁かれていますし、そもそもあからさまな植民地支配(実質的なものはまだ続いているという見解もある)も1960年ころまで続いているわけですから、結局は力のある人が主張したことが通る、ということになってしまっているのです。

忸怩たる気持ちとどう折り合いをつけるか

日々を楽しく生きるためといって、音楽を聴いたり演奏したりしているのですが、こうした背景に思いを巡らせるととても複雑な気持ちになります。

キリスト教徒ではないから啓蒙してあげないと、とか、「商品」として扱っていい、といった考えの世界で育まれてきたものを楽しめるのだろうか。

特に非ヨーロッパ圏のアジアの一角で生まれ育ったものとしては生涯疑問に思い続けるのでしょう。

今の所の気持ちの落とし所は、四半世紀前と同じで、「ヨーロッパの芸術や食文化というのは、世界から搾取して得られた余裕の中で発展できたものであるのだから、これはヨーロッパ単独のものではなく、全世界の共通の財産として誰もが享受できる」といったところになるのでしょうか。

コメント

  1. こや より:

    天才たちがその才能を開花できる次の1のような環境が、ある時期までは西洋にしかなかったということなんだと思います。
    他の国々は、次の2のような環境だったので、才能ある人もプランテーションで植物の世話とかさせられてたのではないでしょうか。

    1 包括的な政治制度(豊かな国の制度)
      集権的政治体制によって「法の支配」が実現しており、このことによって、「自由な市場経済」と「自由な言論による民主政」に基づく多元的な社会が成立している政治体制。

    2 収奪的な政治制度(貧しい国の制度)
      集約的政治体制はあるが権威主義的な独裁制となっていることか、逆に、部族が割拠する無政府状態になっていることにより、「法」ではなく「人」が支配している政治体制。
     

    by「国家はなぜ衰退するのか」(ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン著/ハヤカワノンフィクション文庫)

    • dotayama8 より:

      やはり西洋諸国を擁護するような見解に思えてしまいます。特に奴隷貿易はアフリカ内にあえて分断を持ち込んで、それなりに平和だった社会を破壊したという点では非難は免れないのではないでしょうか。
      絶対王政下においてすでに植民地による収奪は始まっていて、なおかつ天才たちも生まれています。フラットに考えるとどうしても経済的、人道的観点が主であるように感じます。

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