変化の激しい昨今、特に古いものを取り壊して新しくしていくことが多い日本では、若い人であっても、周りの様子が以前と様変わりをしていく状況を目の当たりにしているのではないでしょうか。
「諸行無常」とか「もののあはれ」といった古くからの日本人の感覚は、台風や地震などが多くて移ろいやすい自然環境も影響しているなんていう説も聞いたことがあります。消えていくものが多い、またそこに心を動かされるという心情を持ちやすい地域に生まれている、そんなこともあって消えていくものに強く心を動かされます。
三鷹の跨線橋騒動
みなさんはJR三鷹駅近くにある跨線橋をご存知でしょうか?
三鷹駅の西側にある人道橋で、車両基地にもまたがっているためかなり長く、総武線、中央線、中央線の特急列車、基地に入る地下鉄東西線なども通るため、撮り鉄スポットとしても人気があります。
特筆すべきは、あの太宰治が愛した場所であった、ということです。
三鷹は太宰治の住まいがあった場所で、近くの玉川上水に心中入水自殺をするという最期を遂げました。
こんなチョロチョロとした流れで入水自殺? と思う人もいるかも知れませんが、当時の玉川上水は現在と違って水量が多く、「人喰い川」と呼ばれていて、自殺や事故の多いところでした。
太宰は訪ねてきた人に「いいところに連れて行ってあげる」とよく跨線橋を案内していたそうです。
高い建物もなく今より見晴らしも良かったでしょうから、展望台気分だったのかもしれませんね。
そんな跨線橋も老朽化が激しくなり、存続の声も虚しくついに撤去が決定。昭和4年に設置ということで、耐震的にも維持が難しいそうです。
若い頃は太宰ファンだったのですが、「わりと近いしいつでも行けるから」と一度も行ったことがなかった跨線橋がなくなる・・・何十年も行かずに放置していたことを悔やみました。それでも撤去決定から1年。すぐになくなるわけではないと知った途端にいかなくなるとは、どれだけの無精なのかと呆れましたが、先日やっと出かけてきました。
行ってみると、さすがの老朽化具合で高所恐怖症の人はちょっと怖いかもしれません。
撤去の話を聞いたときは、歴史的な意味のあるものを残せないなんてどういうことか、と思っていましたが、さすがにこれは撤去でも仕方ないかも。
新しく人道橋を作ったとしても、この味わいにはならないでしょうし、鉄道横断のためには近くに地下道があるので、JRも三鷹市も作ったりしないでしょうからね。
まだ多少の猶予があるようなので、それまでの間、何度か訪ねてみたいです。
雑然とした街なみ
相変わらずの再開発ブームのようですが、昔ながらの街なみもどんどん消えていきますね。
東京での事例しか出せずに申し訳ないのですが、今大規模再開発真っ只中の渋谷は、場所によってはまったく以前の面影のない別物になってしまいました。
ごちゃごちゃとした、色々なものを飲み込むような魅力のあった渋谷ですが、整備されたところはきれいで華やかになり、味わいはきれいに消し去りました、という雰囲気になっています。
この勢いがどんどん広がっていくのでしょうか。
新宿も再開発開始ということで小田急百貨店本館建て替えが始まりました。
駅には都庁より高いビルが建つという話ですね。
戦後すぐの面影の残る「思い出横丁(通称 しょんべん横丁)」はどうなるのでしょう。
新宿二丁目の千鳥街のように地権者の権利が複雑で、そのまま残るのでは、という話もありますが、下北沢のような少し郊外の場所ではあっけなく雰囲気のある市場がなくなったりしているので、どうなのでしょうか。
せんべろの聖地と言われていた立石も再開発で独特の雰囲気はなくなってしまうようです。
防災上の問題もあるのでしょうし、世界の中で東京をこれ以上埋没させたくない、という視点もわからなくはないですが、猥雑なものも文化財のように残せたらいいのにと、寂しい気持ちになります。
消えていくものの代表格、人の命
消えていくものの代表はやはり人の命ですね。
よく「人間の死亡率は100%」なんていう言い方をする人がいますが、肉体に関して言えばそのとおりで、医学がどんなに発達しても人間の構造上、120歳まで生きるのが限界のようです。
どた山もこれまで母や前のパートナーとの死別を経験して、未だに立ち直っているわけではなく、おそらく一生瘉えることのない傷のように残っていくのだと思いますが、いずれ自分にも順番が回ってくるのですから、これからの日々も大切にしたいですね。
自分の命が終わったら、おそらく火葬されて土に帰っていくのだと思いますが、地球もいずれ巨大化した太陽に飲み込まれ、太陽も超新星爆発やガスの放出により最期をむかえるわけですから、いずれすべてが消えて、私達も宇宙に漂う素粒子となっていくのでしょう。
すべては移ろう、その先に
三鷹の跨線橋や再開発される街を見て、なんとなく沈み込んだような気持ちになるのは、今まであったものが失われていく寂しさが土台としてあるから。
平家物語や方丈記にあるように、言ってみれば過剰に無常観がある地域に生まれ育ったために、寂しさを強く感じるのかもしれません。
すべてはいつかはなくなってしまうもの。今ある状態を慈しんで生きていきたいものです。
自分のこともそうですね。現状の自分に不満足なのは十分承知。その不満足なことも受け入れて、自分も大切な人のことも大事に思えば、きっと毎日の楽しいにつながっていくのではないかな、と思っています。
いずれみんな、宇宙の中の素粒子になるのですから(まあ今もなっていますけど)、現在を味わって過ごせたらよい日々になるのかもしれません。
コメント
「なくなっていくものごと」にだけフォーカスしてしまうと、とても悲しい気分になります。でもそれは、次になにかをつかむための前段階なのかも、と思い直すと、悲しんでばかりいられないとも思います。どうせはかない、わずかばかりの人生、ならば、どっちもしっかり心に刻みたいと思います。
難しい問題です。人の一生は宇宙の歴史からすればきらめきの一瞬。消えていくものにはノスタルジーを味わうとともに、よい思い出を与えてくれた感謝を捧げないといけないな、と感じます。
世の中は虚しいですね。
既に多くの人が、みのもんたを忘れているし、石原裕次郎や星野仙一も忘れられて記念館が廃館になったように、あれだけ隆盛を極めていた人たちですら、人の記憶から消えていくのですね。
タモリが言うように、夢や計画などの邪念を待たず、今日が明日のためにあるのではなく今日は今日のためだけにあると考えて、今を精一杯生きていくという「JAZZな生き方」をして、自然と消えていきたいものです。
タモリへの深い敬愛の情が伺えますね。私たちは日頃から過去と未来にとらわれるという特性があるのではないかと危惧しています。過去への後悔と未来への不安ですね。今を大切に過ごすというのは幸せへの大きな考え方の転換です。