うつ病に見られる「3つの妄想」というのがあるそうです。
「心気妄想」「貧困妄想」「罪業妄想」の3つなのですが、これらは歳と共にありがちになる心配ともつながるのかなと思ったので、生きやすくなるための思索の材料として考えてみたいと思います。
心気妄想
心気妄想は自分の健康状態に関する妄想です。
実際は健康であるにも関わらず、生命の危険があるような病気にかかっているのではないか、と疑ってしまう妄想です。
実際になにかしらの体調不良が続いたりすると、大きな病気なのではないかと過剰に心配になることがありますよね。
心配して検査など受けることは、病気の早期発見になったりするので良いことなのだと思いますが、過剰に不安になってしまうとメンタルをやられてしまいます。
どた山も以前、ちょっとしたことですぐに医者に行っていたので、「そんなに心配性だと、心配することで病気になる」と医者に注意されたことがありました。
今も割と健康に関する妄想はあって、たとえば明らかに体に悪いと言われているものを食べるのをとても嫌がったりします。
カリカリに焼いたベーコンってとてもおいしいのですが、もともと加工肉は体に悪のものの最先端のものと言われているし、高温調理したもの、焦げのあるもの、なんていうのもはなはだしく健康に悪いと言われているので、どうも手を出しにくいですよね。
でも神経質に避け続けると、どんどんエスカレートして妄想の域に達してしまいそうなので、月に1回の楽しみという感覚で食べるのがいいのかな、と思っています。
ポテトチップスやフライドポテトも体に悪いものの代表例として取り上げられますね。
高温調理した炭水化物はアクリルアミドが大量に含まれていて、がんやアルツハイマー型認知症の原因のひとつだし、すべての生活習慣病の原因、とまで言われると食べられなくなっちゃいますよね。
食べなくても済むなら特に問題ないかと思いますが、人と一緒にファストフード店に入るなんていうことも人生のうちにはあるでしょうし、月に1度とかならまあいいか、と鷹揚に構えないと、ストレスが多くなって逆効果かもしれません。
貧困妄想
貧困妄想は、収入がちゃんとあったり、貯蓄があったりしても、生活できなくなってしまうのではないか、路頭に迷ってしまうのではないかと過度に心配するというものです。
他国ほどではないにしても物価が上がり、一方で給料や年金は上がらない、上がる場合でも物価に追いつかず、実質賃金は減少している、という人が多い状況です。
また、一定の年齢になると賃金がカットされたり、年金も支給額の減少や支給開始年齢が上がっていく方向となれば、心配するなと言われても無理があるでしょう。
実際、周囲にも金銭的なことで将来が不安になり、鬱屈としてしまっている人がかなり見受けられます。
そのため、ブラックな環境であっても恐怖から仕事を辞めることができず、メンタルをやられてしまったり、そうして辞めることのできない人を使用することでブラック企業が温存されてしまうという悪循環になる、といった事態まで起こっています。
日本は仕事を辞めて他に移る、という習慣が今までなかったことも原因で、これからは変わっていく方向です。ただ、転職して収入を上げていくという構造に適合できる人は一部でしょうから、格差だけ開いていってしまうのかもしれません。
今回取り上げる3つの妄想の中で一番広範囲の人に関係し、根深くもあり、絶望感すら感じる貧困妄想ですが、逃れる方法はあるのでしょうか。
こう言うと非難もあるかもしれませんが、諦める、開き直る、しかないのかなという気がしています。
努力して貧困に陥らないようにすべきだ、というスパルタな人もいるでしょうし、能力を高めるように考えろ、と言われるかもしれません。
しかし、楽しく生きる、という視点に立ったとき、そこまではできないよ、というのが正直な感想なのです。
糖尿病の原因のひとつがストレスだそうですが、日本で糖尿病が多いのは過度なストレス社会だから、という見解もあります。
貧困妄想で心身ともに病気にならないようにする、これは私たちが注意しなければいけない大問題なのだと思います。
罪業妄想
これは自分のしていることが罪だったのではないかという妄想で、自分に厳しい人に見られる傾向があるようです。
これまでの心気妄想や貧困妄想のように多くの人が思い当たる、という程ではないのかもしれません。
駐輪場でロックがうまく行っていなくて、支払いをしなかった、といった場合に自分を追い詰める、なんていう人は当てはまるのかなと思いました。
普通は、「あれ? ロックがはまってなかった」と事実だけを受け止めて終わってしまう、ちょっと調子のいい人だと「今日はラッキ〜」で済ませてしまうケースだと思いますが、そうならない人は完璧主義、自分に厳しい、といった生きづらい考え方をしてしまう傾向にあるのかもしれません。
どた山の場合だと、例えばオーケストラの練習で「125小節目の1stヴァイオリンは音程が悪いから注意してください」といったことを言われた場合、自分が原因で注意されたと思うことがよくあります。
考えすぎだと言われるのですが、指摘後わざと弾きまねだけして音を出さなかったりすると、とてもきれいに響いている、といったことがあるので、ますます罪の意識が強まります。
これも諦める、開き直る、の精神が大事かもしれませんね。
医学的な考察ではないですが
以上は「うつ病に見られる3つの妄想」というものを手がかりに、私たちが生きやすくなるための方法といった視点から考えてみたのですが、医学的なものではなく、考える材料として使用した、ということはご理解ください。
多少の不摂生も人生の味わいだし、経済的なこと、自分に厳しくしてしまうこと、こうしたことには、諦めたり開き直ることが必要なのだなと感じさせられました。
世の中的に優位に立っている人からすると、なにを甘えたことを言っているんだ、と不愉快になるのかもしれませんが、そうした人には言わせておけばいいのではないでしょうか。
また、そうした諦めは為政者の思う壺だ、との指摘もあるかと思いますが、その点は心に留めて諦めないといけないですね。
人生の目的は猛烈にがんばることではなく、楽しむことなのだ、と痛切に感じます。
コメント
これらの妄想は、自分への期待の高さや他人との比較からくるものだと思います。
人生を幸せに送るためには、みうらじゅん先生のおっしゃる「自分なくし」の修行が必要なのかもしれません。
そう思います。今の世の中は、もっとちゃんとしないといけない、もっと上を目指さないといけない、という強制的な圧力が大きすぎます。なんでみんな追い詰められながら生きているのでしょうか。
ファーストフードも、なかなかおいしいですよ。
月に一度と言わず、2度3度……。
やむを得ず食す、となると月1回が限度ではないでしょうか。それ以上だと、生活の潤い、ゆったりとした気持ちというものに影響するので、避けたほうが賢明かもしれません。